ライター標本5・6

インドネシア帰りのかけ出しフリー編集・ライターのブログ

東南アジア現地採用を経験して - じゃかるた新聞で働いてました

じゃかるた新聞辞めました

留年して計6年通った大学を卒業した後インドネシアに渡り、2011年4月から2013年9月までの約2年半、新卒でじゃかるた新聞の営業部に在籍した。東南アジアでいわゆる現地採用やってました。

辞めたのはもう半年くらい前のことであり、今更という気もするのだけれど、まだ帰国後に会えていない友人への報告や、まだ見ぬ誰かへの自己紹介、自分にとっての総括として記録する。

っていうこのエントリ、三ヶ月くらい前に書いてたのになぜかアップしてなかったことに気づいて、上げた次第。

◆目次
・そもそもじゃかるた新聞って?
・なんでインドネシア行ったの?
・じゃかるた新聞でやったこと
・日常生活において
・これから
・学んだ事

そもそもじゃかるた新聞って?

1998年に創刊した、在インドネシア邦人向け日刊紙。主な読者層はインドネシア駐在員、現地採用の会社員、自営業者及びその家族で、1日に約5500部発行の全8ページ、月曜日だけ12ページで発行している。インドネシアの在留邦人数は1万三千人くらいだったので、世帯数でカウントするとカバー率8割越えの、局地的知名度の高いメディア。(※数字は全て在籍当時)
もし周りにインドネシア駐在した事があるという知人がいれば、十中八九知っていると思う。知ってなければモグリと言っても過言ではないかも。

世界で唯一部数が右肩上がりの新聞、と社内で冗談を言い合っていたことを記憶しているが、これはあながち冗談ではなかった。インドネシア在留邦人数に限りがあるためマーケットサイズとしては非常にニッチだが、カバー率の高さは特筆するものがある。
その理由は大きく二つ、、、って書こうと思ったけど、そのうち別エントリで書くことにする。
現在はインドネシア語の月刊タブロイド紙発行やレストラン紹介サイト運営も行っている。
http://www.jakartashimbun.com/

なんでインドネシア行ったの?

よく聞かれるので。もともと新聞記者になりたくて日本の新聞社の試験を多数受けていたが通らず、通っていた作文塾の主宰の先生からじゃかるた新聞の存在を教えてもらい連絡してみたのが始まり。
編集長が東京に来たついでに面接をしてもらい、初対面で3時間半の説教をされ「この人のもとで修行できたらおもしろいかも」と思い、入社させてもらう運びに。大学生のときにイベントの企画運営などしていたため、営業部へ配属される事となった。当時編集長だった草野さんは、残念ながらぼくが入社して間もなく入院、そこから半年で亡くなり、直接指導していただく機会はほとんどなかったが、新しい世界への道を与えてくれた事に大変感謝している。

じゃかるた新聞でやったこと

一応広告マンのはしくれ

営業部に在籍し、主な仕事は広告営業と広告制作。デザインを外注するほどの規模ではないため、営業をして取ってきた仕事はコピーライティング、レイアウト、デザイン、場合によっては写真撮影のすべてを自分で行った。IllustratorとPhotoshop知識ゼロの段階から、はじめて二ヶ月くらいすると、何となくではあるが広告を作れるようになっていったことを覚えている。「やらざるを得ない環境に身を置くとできるようになる」という言説の正当性を身をもって感じた。

日本の一流企業の広告もたくさん担当した。広告作り始めてから1年経ってないド新人がてがけるには規模の大きいクライアントも多数あった。小さな組織で働く事のメリットの一つでもあったといえるだろう。以下一部記載した以外の会社もたくさん、現地企業や飲食店など含めると、数えてないけどたぶん計50以上のクライアントを担当したと思う。(以下すべてインドネシアかシンガポール現地法人)

商社:伊藤忠商事、住友商事、三菱商事、湯浅商事、
サービス業:近鉄エクスプレス、国際電通情報サービス、損保ジャパン、東京海上、日経新聞、JTB
工業系:三菱電機、NIKON、千代田興行
メーカー:ベスト電器、河合楽器、HOYU
学校法人:関西大学、中央大学、山口大学、早稲田渋谷シンガポール校

2011年と2012年は日系企業の進出ラッシュがあった年で、1年で300社くらい増えた異常な年だった。もともと1200社くらいだったので、急に30%アップという数字を見るとそのすごさが分かっていただけるだろうか。
発行部数も伸びて、広告も活況だった。その意味では広告マン、マーケッターとしてはおもしろい時期にジャカルタにいられて非常に幸運だったといえる。

小さい会社なので何でもやる

契約書の作成や、場合によっては集金まで行うなど、業務の端から端まで見えたので組織がどうやって回っているかがわかった。他には会社のウェブサイト刷新を業務時間外に行ったり、毎年行われるジャパンジャカルタ祭りという大きなイベントに合わせて開催する写真展の運営等、人によっては印刷所で品質チェックを行ったり、新聞を発行する会社を運営する上で記事を書く事以外のすべてをやっていた感じ。

そういえば、三菱商事と朝日新聞共催の東南アジアで行った震災に関する写真展に、じゃかるた新聞の写真を使ってもらう交渉をして通った事があった。意義が合致してれば、意外とものごとって進んでいくんだなと実感しておもしろかったこともあった。
あと会社の模様替えとかもすごく疲れた。いろいろあったなあ。
最初の半年間は営業やりたくなくて、くさっててあまり仕事をしなかったのにクビにならなかったことに強く感謝している。

日常生活において

インドネシアでは、インドネシア語が話せないと生活する事は難しい。「そんなことないよ、英語を話せる人は多いし」という反論がすぐに飛んできそうだが、それは上流階級の話。駐在員の多くは高級アパートに暮らし、専属の車とドライバーが付き、決して安くはない飲食店にしか足を運ばない。そんなサービスの質の高い場所で英語が通じないはずが無いだろう。現地採用の中でも給料が高い方ではない暮らしの中では、インドネシア語も必須だし、それなりの環境適応能力が問われる。

とはいえインドネシア国民全体の平均月収は2万円程度で、大卒新卒で3〜4万円、マネージャークラスでようやく10万円を得る程度。日本人のぼくは現地採用と言えど高給取りであったのは確かだ、がいずれにせよ「伸びゆく東南アジア市場」を肌で実感できたのは大きかった。上流階級ではなく路地裏の生活をしていたからこそ得た経験は多岐にわたる。

これから

都内で公益法人に勤める傍ら、東工大の友人と一緒に若者の社会参画を促進する活動を行うNPO法人設立準備中。自分で申請書類作って、ワードプレスでウェブサイトも作ったり、自分でできることが少しずつ増えていって楽しい。週四日働きつつ、それ以外の時間を任意団体として活動にあてている。

インドネシアで暮らしてみて、いろんな人がたすけてくれるため人間は意外と死なないこと(だからこそ自分もできる限りでよいので人の事を助けたい)や、チャレンジは若いうちにする方が理にかなっている事が分かったので、今のうちにやりたい事をやろうと思っている。
事業をゼロから作ってチャレンジしてみると、失敗してもそんなバイタリティがある人間であれば雇ってくれる人はいるだろうし、人間ひとり食うくらいは何とかなると思う。

ジャカルタで営業周りをしていると、うちで働かないかと誘われる事もしばしばあった。熱心に誘っていただいた場合は自分で事業やりたい旨を伝えつつ僭越ながらお断りすると、「その事業失敗して眉間に傷つくってきたらまた雇いたい」と言ってくれる方もいた。将来実際に雇ってくれるかはさておきこの言葉はずいぶんと励みになった。「背中の傷はつくるなよ」という言葉合わせてもいただき忘れられない。

学んだ事

長くなってきたので以下思いつくだけ箇条書き

とりあえず日本から出てみてわかったこと

・日本はよくもわるくもサービスがオーバースペック
・一定期間ごとに給与交渉するほうが自然なのではないか
・日本人の英語できないです病の感染元
・海外の日本人コミュニティの結束
・20代とか若いんだからどんどんチャレンジする方が理にかなっている
・意外と死なない-若いうちにチャレンジする方が理にかなってる
・日本人きちきち・ぎすぎすしすぎ

インドネシアで暮らすという事こと

・ムスリムを中心に、信仰心の強い人々とくらしたこと
・南の国特有の人懐っこいメンタリティから学んだこと
・富の再分配ゼロの半端じゃない格差社会、
・金ってあるとこにはあるんだな
・日々肌で感じる”経済成長”

小さな組織で働くということ

・なんでもやる。仕事が切り分けられてなくて基本何でもやる必要があること
・給料とは何も考えずに降って湧くものではなく、売り上げ拡大して勝ち取っていくものであること
(あまり勝ち取れなかったのは内緒)

メディアで働くということ

・メディアも商売、正義のためではなく読者のためにあるもの
・最初は記者になりたかったけど、営業やって視野と可能性が広がった
・守秘義務はあるが、情報が集まる場所にいることのメリットは大きい

広告マンとして働くということ

・クリエイティブとはおしゃれな事ではなく反響を出す事

上記の学んだ事については、少しずつエントリにしていきたい。

最後に、じゃかるた新聞は随時従業員を募集しているそうなので、メディア業界で働きたい方や海外で働いてみたい方は下記URLをチェックしてみてはいかがでしょうか。
http://www.jakartashimbun.com/free/wpage/Saiyo/