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ライター標本5・6

インドネシア帰りのかけ出しフリー編集・ライターのブログ

「『シャルリエブド』の批判=テロ容認」とし、表現の自由を盾にイスラム教徒へ踏み絵の強要という暴力

最初に書いとくけど、このエントリでは「ヘイト表現も駄目だし、テロもダメだよね」という話を延々とするだけです。

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風刺画が売り物のフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」の事務所が7日、自動小銃を持った男らに襲撃された。少なくとも記者ら12人が死亡、数人が重体となった。同紙は、イスラム教を風刺するイラストで物議をかもしてきた。

パリの新聞社襲撃、12人死亡 イスラム教風刺で物議:朝日新聞デジタル

フランスでは相変わらず緊張感が漂っているらしいですが、日本では早くも風化しつつあるこの事件。イスラム教徒の友人が多いので、スルーしたくねえな…と思ってて、とりあえず思ってることを深夜に吐き出してみた。今日から〆切に追われる毎日で、今出しとかないとタイミングを逃すかもしれないのが怖かった。

表現の自由と、表現を受け入れることの強制は全く別のこと。

表現の自由が大事というのは、権力からの自由であることが重要という話であって。表現を国家などの権力に握りつぶされないために必要な概念。

王様とかごく少数の人々によって統治が行われ、勝手なことを言うと刑務所にぶちこまれる。お上に逆らったら殺される、という時代に「表現が不当に処罰されない」ことが必要だったために、大事にされてきた概念なんですよね。

日本の憲法では請願権という権利が国民に認められている。簡単に言うと国にお願いすることができる(願いを叶えるとはいってないよ)という権利なんだけど、2015年を生きる現代人からすると、「何の意味があるの?」って感じで権利の重さがよくわからないもの。

これも「お上の都合の悪いことを言うと殺されたり投獄される」という、統治している人々にお願いをするということすらもできなかった時代があるので、成立した権利です。

そこから勝ち取った表現の自由を大事にする必要があることは、自明の理であることには激しく同意しますよ、ぼくだって。

で、今回の場合ですよ。

発禁処分になった、とかであれば表現の自由を主張するべき。でも、しっかりと出版されている。表現の自由に基づいて、とあるヘイト表現がなされた。それに対するリアクションとして、テロ行為があったという話。

ヘイト表現もダメだし、テロもダメだよね。という基本的な話なんだけど、どうもこじれている。

事件後に、インドネシアのMUI(インドネシア・イスラーム聖職者会議、政府機関ではなく独立した宗教学者組織)のトップがこんな発言をしています。

「『シャルリエブド』は表現の自由の下で出版されたものだが、我々はその内容に抗議する。しかし、殺人による抗議は正しいことではない」

Indonesian Ulema Council condemns attack on Charlie Hebdo`s office - ANTARA News

これに尽きる。冷静で、当たり前なこと言ってるのであんまり議論映えしないけど。

イスラム教では偶像崇拝の禁止が徹底されている。日本人には理解しづらいかもしれないけど、例えば我々でいう「人を殺すのはいけない」というような、大前提にされている倫理のひとつに、神や預言者の姿を描くこと自体がタブーという項目があるという感じか。

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-

これ読みましたけど。許すと赦すがうんたらとか今はクソどうでもいいんですよ(いや、翻訳という作業が非常に繊細で大切で、難しい作業だというのは理解しているんですが、この件においてはそこじゃねえよ的な)。描いちゃダメだっつの。このセンシティブな状況で「ムハンマドとは限らないじゃん」とか「他にも描かれた例があるからいいじゃん」、「翻訳が間違ってるせいでメッセージが伝わってない」みたいなこと言ってますけど。作家が自分の都合のいい解釈を受け手側に強要する権利ではないんですよ、表現の自由ってのは。今回はこの状況で、ムハンマドと解釈されうる人物を描いてるのは、表現として火に油注ぎたいだけやん。どんなに尊い大切なメッセージだとしても、人を傷つけることでしか伝えられないのなら、その行為が“赦される”とは到底思いません。


全文表示 | フジTV「めざまし」が「大胆取材」! 在日ムスリムに襲撃事件の「風刺画」見せて感想聞き回る : J-CASTニュース

これも、読んでて怒りしか感じない。ゲスい。報道の名のもとに何やってもいいんですかね。絵を見せる必要あるのか? 話だけ聞けばええやん。

フランス社会、ひいてはヨーロッパ中が盛り上がり、事件の構図の単純化がなされてしまっている。「『シャルリエブド』の批判=テロ容認」みたいな感じになってしまって、「お前もテロを容認するのか?」とずべてのイスラム教徒が踏み絵を強要されてる感じ。

すべてのイスラム教徒にとって、雑誌の内容は到底受け入れられるものではない。しかし、世界中のイスラム教徒にとって、その意見を公に発することが少し難しい状況になっている。「テロリストの一味」扱いなんてされたらたまったもんじゃない。

だからこんな意見になっちゃうんじゃないかなと。


我々イスラム教徒は「シャルリー・エブド」を支持する | Asif Arif

別に支持はしなくてええやん…。テロの犯人を許さない。それだけでいいのにさ。


「『シャルリエブド』の批判=テロ容認」ではないし、もちろん「テロの否定=『シャルリエブド』の容認」ではない。

『シャルリエブド』がイスラムへのヘイト表現を始めたのは最近のことではない。そして、多くのイスラム教徒が怒り、その中でも合法的に対抗している人々がいる。そのことを説明している記事がこれ。中東政治の専門家、酒井啓子教授の説明。

忘れるべきではないのは、シャルリー擁護かテロ擁護か、の2項対立で抜け落ちるものの重要性である。何が抜け落ちるのか。まず第一に、フランスを始めとして、欧米社会で差別を受け辺境に追いやられてきたイスラーム教徒の移民社会の憤懣を、合法的な手段に訴え解決を図ってきた、在欧米社会のイスラーム教徒の地道な努力である。

 シャルリー誌の、ほぼヘイトスピーチともいうべきイスラームに対する侮辱表現が、多くの欧米在住のイスラーム教徒を傷つけてきたことは事実である。そしてそれを合法的な形で止めさせようと、イスラーム教法曹界はさまざまに努力してきた。

(中略)

 シャルリー誌の侮辱は許せない、だが表現の自由をテロで奪うのはケシカラン、というごく真っ当な感覚を、イスラーム教徒も当然持っているのだ、と認識すること。そのことを、テロの痛みのなかで欧米社会が失わずにいられるかどうか。
引用元:嫌イスラームの再燃を恐れるイスラーム世界 | 酒井啓子 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

まあ、9.11の後に「イスラム=テロ」という誤ったイメージが世間に広まってしまったのと同様のことが、イスラム国のせいで起こってるんだろうけども。

とあるアイデンティティを持った個人が犯した罪を、そのアイデンティティの帰属先すべてにかぶせちゃだめでしょ。

「テロリストの一味」扱いをされないためだけに、『シャルリエブド』の批判ができないイスラム教徒の方こそ、表現の自由を失っているように見える。

この一文を書きたかっただけです、たぶん。

あと、「イスラム教だけでなくキリスト教のディスもしてるからいいんだ」っていう意見を見かけてびっくりしたけど、どっちもダメ、以上、って感じだね。発禁とかになったら表現の自由が侵されたってことになるけど、表現の自由は人を傷つけることが正当化される自由ではないので。