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ライター標本5・6

インドネシア帰りのかけ出しフリー編集・ライターのブログ

文学を作家から取り戻さなければならない いとうせいこう✕若松英輔の対談メモ

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《第262回新宿セミナー@Kinokuniya》若松英輔×いとうせいこう 「たましいのこえ――死者のコトバ、コトバである死者」(2015年3月31日)※本講演会は終了しました。 | 本の「今」がわかる 紀伊國屋書店
およそ一ヶ月前、このトークショーに行ってきた。

東日本大震災の後に小説『想像ラジオ』を書いた、いとうせいこう氏と、『魂にふれる 大震災と、生きている死者』を書いた若松英輔氏の対談。これらの作品の共通項が「死者」であることから、どんなところに話が転がっていくのかわくわくしていた。結果、期待以上の場所へ連れて行ってもらえたトークショーだった。

全体的に、若松さんが価値観を提示して、いとう氏がその肉付けをしていくという感じの流れだった。若松さんが繰り広げる世界観は、か細い一本の糸を手繰り寄せながらも、曇りなく一定の方向を指し示していた。いとうせいこうさんのちょっとした言葉遣いや例えの豊富さは、さすがの一言。個人的には、若松さんの世界観や価値観に強く引き込まれた。

「死者」を「見えないけど存在するもの」と定義し、“みえないけど、そこにあるなにか”と付き合うことが、現代では少なくなってきている。そこから、“みえないけど、確かにそこにあるなにか”が、作家の体を通して作品になったものを「文学」というんだという話にシフトし、とっても熱い文学論が始まった。

以下、特に感銘を受けたトークの一部抜粋。

<若松氏>
文学っていうのは誰かのものではなく“できごと”である。何かが起こって、それをただ描写したもの。それを自分が発信したのものだと勘違いした作家は、どんなに有名作家だろうと、しょうもない。

文学を作家から取り戻さなければならない。

“正しい文学”なんかない。

仮に“正しい音楽“なんか主張したら笑われる、何だそれって。文壇の、作家が発信するものが正しく、読者はただ受け止めるだけという構図は、そろそろなくさなければならない。ひとりひとりの読者が、何らかの作品を読んで感じたことは、読者にとっては“本当のこと”。それを大切にして欲しい。

<いとうせいこう氏>
和歌を読む歌会では、誰もが平等に歌を詠み、評価し合った。「それ、いいね」という誰かの評価によって“風が吹き”、歌は読んだ瞬間とは別のものとなる。秀吉が偉かったのは、有名な歌詠み、大名、乞食、商人をまとめて一緒くたにしていたこと。私たちもそれに立ち返るべきである。

トークショーの最後には、若松氏の観客への鋭い指摘もあった。

<若松氏>
メモなんか取ってないで話を聞いて感じたことを書いて欲しい。大したこと言わないんだから。以前、講演をした際に一番前に座って、話を聞きながら一心不乱に絵を書いていた人がいた。最初は気にならなかったけど、最後の方には気になってしょうがなかった。「おれの話ってどんな絵なの?」って。

メモを取りながらドキリとした。このへんの、観客に対してもガチンコなあたり、すげーなって感じだった。


トークの締めに、若松氏が「ネット社会全盛の時代だからこそ、自分がいいと思ったもの、ことは勇気を持って褒めて欲しい。優位性を感じるためだけになんでも貶す人が本当に多すぎる」と懇願するように話していたのが印象的だった。

いわゆる「何が嫌いかじゃなくて、何が好きかで自分を語れよ」ってやつですな。


文学を作家から取り戻さなければならない

ってかっこよすぎだよなー。要するに権威にすがるんじゃなくて自分のインスピレーションに従って生きようぜって話だったのかと。面白い話はもっとたくさんあったけど、それはトークショーにお金払って行った人たちだけが、大切に心に刻みます。