ライター標本5・6

インドネシア帰りのかけ出しフリー編集・ライターのブログ

見えるか、見えないか。企画を考えるアタマのつくりかた

編集会議の編集・ライター講座を受けてきたメモ。

今日の講座の2コマ目は、これまで約200冊120冊以上の書籍を作ってきた(聞き間違いでなければ聞き間違いでした)という凄腕編集者・石黒謙吾氏に、雑誌化書籍の企画書をレビューしていただくという内容だった。受講生は100人近くいて、多面将棋みたいな感じで一人に使える時間は少なかったが、他人のレビューも参考になる。2時間みっちり収穫の多い実りある講義となった。ぼくの企画はボロボロにけなされてきたわけだが、めっちゃよかった。企画を考えるアタマのパラダイムシフト起こったで、これ。個別の評論など、開催元の宣伝会議はSNS等で講座内容を記載することを禁じているようなので、詳細は割愛(ちょっと狭量な気もする)。

「新聞や雑誌記事、右から左に流しただけ、汗が見えない」と評された。ぼくが実際にブログで書いていたネタだったりしたて汗は書いてるんだけどな〜と思いつつ、百戦錬磨の書籍編集者からすると既視感が大きかったのだろう。もっとそそる、伸びしろのあるコンセプトを立てる必要があった。まだこの世に無い、それ読んでみたい、と感じさせるような。

最後に講師の帰り際に声をかけ「こんな論点の企画だったらどうですかね」と他にあたためていた企画の提案したわけだが、「おもしろいとは思うけど、パッケージング全体で判断するものなので、ここで各論のみのレビューはしかねる」と言われ合点がいった。GOサインが出るかどうかは、要するにどんな媒体で何ページ、カラー白黒かなど体裁を含めて、出来上がった本が思い浮かぶかどうか、“見える”かどうかなんだろう。約100名いる受講生のすべてのレビューをしている中で、何回か「この企画は完成したらこんな感じだろうなって“見える”」と言っていたのが印象に残った。
自分なりに考えた反省点としては、自分の関心が先行しすぎて、既存のフォーマットにネタをどうハメ込むかという練りが非常に浅かった。また講師の性格や好みを事前に考えて作ったら「これだったらあそこに紹介しようか」という展開もありえたはず。ぬかった。

いずれにせよ、今の自分にはこの媒体のこの企画だったらこんな内容と体裁で…というイメージが足りなすぎる。既存の媒体をこれまでとは違う読み方をする。そして感覚値を養いつつ、つてをたどって、その判断をして貰える人にぶつけるということを重ねていくことだな。

石黒さんは、企画書を見て5秒でいいかダメかがわかると言っていた。そんなもんかな〜と思いつつ、じゃかるた新聞の広告を作っていた時に「このクライアントは落とせる」というイメージが湧く場合とそうでない場合があったのを思い出した。「このサイズで、こんなコピーとレイアウト、月に何回出してもらおうかな…」というイメージを持つことができると、結果的に口説き落とすことができた場合が多かった気がする。数をこなしていくと、“見える”ものがあるんだろうと思って、下積んでいくしか無いな。

「『シャルリエブド』の批判=テロ容認」とし、表現の自由を盾にイスラム教徒へ踏み絵の強要という暴力

最初に書いとくけど、このエントリでは「ヘイト表現も駄目だし、テロもダメだよね」という話を延々とするだけです。

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風刺画が売り物のフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」の事務所が7日、自動小銃を持った男らに襲撃された。少なくとも記者ら12人が死亡、数人が重体となった。同紙は、イスラム教を風刺するイラストで物議をかもしてきた。

パリの新聞社襲撃、12人死亡 イスラム教風刺で物議:朝日新聞デジタル

フランスでは相変わらず緊張感が漂っているらしいですが、日本では早くも風化しつつあるこの事件。イスラム教徒の友人が多いので、スルーしたくねえな…と思ってて、とりあえず思ってることを深夜に吐き出してみた。今日から〆切に追われる毎日で、今出しとかないとタイミングを逃すかもしれないのが怖かった。

表現の自由と、表現を受け入れることの強制は全く別のこと。

表現の自由が大事というのは、権力からの自由であることが重要という話であって。表現を国家などの権力に握りつぶされないために必要な概念。

王様とかごく少数の人々によって統治が行われ、勝手なことを言うと刑務所にぶちこまれる。お上に逆らったら殺される、という時代に「表現が不当に処罰されない」ことが必要だったために、大事にされてきた概念なんですよね。

日本の憲法では請願権という権利が国民に認められている。簡単に言うと国にお願いすることができる(願いを叶えるとはいってないよ)という権利なんだけど、2015年を生きる現代人からすると、「何の意味があるの?」って感じで権利の重さがよくわからないもの。

これも「お上の都合の悪いことを言うと殺されたり投獄される」という、統治している人々にお願いをするということすらもできなかった時代があるので、成立した権利です。

そこから勝ち取った表現の自由を大事にする必要があることは、自明の理であることには激しく同意しますよ、ぼくだって。

で、今回の場合ですよ。

発禁処分になった、とかであれば表現の自由を主張するべき。でも、しっかりと出版されている。表現の自由に基づいて、とあるヘイト表現がなされた。それに対するリアクションとして、テロ行為があったという話。

ヘイト表現もダメだし、テロもダメだよね。という基本的な話なんだけど、どうもこじれている。

事件後に、インドネシアのMUI(インドネシア・イスラーム聖職者会議、政府機関ではなく独立した宗教学者組織)のトップがこんな発言をしています。

「『シャルリエブド』は表現の自由の下で出版されたものだが、我々はその内容に抗議する。しかし、殺人による抗議は正しいことではない」

Indonesian Ulema Council condemns attack on Charlie Hebdo`s office - ANTARA News

これに尽きる。冷静で、当たり前なこと言ってるのであんまり議論映えしないけど。

イスラム教では偶像崇拝の禁止が徹底されている。日本人には理解しづらいかもしれないけど、例えば我々でいう「人を殺すのはいけない」というような、大前提にされている倫理のひとつに、神や預言者の姿を描くこと自体がタブーという項目があるという感じか。

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-

これ読みましたけど。許すと赦すがうんたらとか今はクソどうでもいいんですよ(いや、翻訳という作業が非常に繊細で大切で、難しい作業だというのは理解しているんですが、この件においてはそこじゃねえよ的な)。描いちゃダメだっつの。このセンシティブな状況で「ムハンマドとは限らないじゃん」とか「他にも描かれた例があるからいいじゃん」、「翻訳が間違ってるせいでメッセージが伝わってない」みたいなこと言ってますけど。作家が自分の都合のいい解釈を受け手側に強要する権利ではないんですよ、表現の自由ってのは。今回はこの状況で、ムハンマドと解釈されうる人物を描いてるのは、表現として火に油注ぎたいだけやん。どんなに尊い大切なメッセージだとしても、人を傷つけることでしか伝えられないのなら、その行為が“赦される”とは到底思いません。


全文表示 | フジTV「めざまし」が「大胆取材」! 在日ムスリムに襲撃事件の「風刺画」見せて感想聞き回る : J-CASTニュース

これも、読んでて怒りしか感じない。ゲスい。報道の名のもとに何やってもいいんですかね。絵を見せる必要あるのか? 話だけ聞けばええやん。

フランス社会、ひいてはヨーロッパ中が盛り上がり、事件の構図の単純化がなされてしまっている。「『シャルリエブド』の批判=テロ容認」みたいな感じになってしまって、「お前もテロを容認するのか?」とずべてのイスラム教徒が踏み絵を強要されてる感じ。

すべてのイスラム教徒にとって、雑誌の内容は到底受け入れられるものではない。しかし、世界中のイスラム教徒にとって、その意見を公に発することが少し難しい状況になっている。「テロリストの一味」扱いなんてされたらたまったもんじゃない。

だからこんな意見になっちゃうんじゃないかなと。


我々イスラム教徒は「シャルリー・エブド」を支持する | Asif Arif

別に支持はしなくてええやん…。テロの犯人を許さない。それだけでいいのにさ。


「『シャルリエブド』の批判=テロ容認」ではないし、もちろん「テロの否定=『シャルリエブド』の容認」ではない。

『シャルリエブド』がイスラムへのヘイト表現を始めたのは最近のことではない。そして、多くのイスラム教徒が怒り、その中でも合法的に対抗している人々がいる。そのことを説明している記事がこれ。中東政治の専門家、酒井啓子教授の説明。

忘れるべきではないのは、シャルリー擁護かテロ擁護か、の2項対立で抜け落ちるものの重要性である。何が抜け落ちるのか。まず第一に、フランスを始めとして、欧米社会で差別を受け辺境に追いやられてきたイスラーム教徒の移民社会の憤懣を、合法的な手段に訴え解決を図ってきた、在欧米社会のイスラーム教徒の地道な努力である。

 シャルリー誌の、ほぼヘイトスピーチともいうべきイスラームに対する侮辱表現が、多くの欧米在住のイスラーム教徒を傷つけてきたことは事実である。そしてそれを合法的な形で止めさせようと、イスラーム教法曹界はさまざまに努力してきた。

(中略)

 シャルリー誌の侮辱は許せない、だが表現の自由をテロで奪うのはケシカラン、というごく真っ当な感覚を、イスラーム教徒も当然持っているのだ、と認識すること。そのことを、テロの痛みのなかで欧米社会が失わずにいられるかどうか。
引用元:嫌イスラームの再燃を恐れるイスラーム世界 | 酒井啓子 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

まあ、9.11の後に「イスラム=テロ」という誤ったイメージが世間に広まってしまったのと同様のことが、イスラム国のせいで起こってるんだろうけども。

とあるアイデンティティを持った個人が犯した罪を、そのアイデンティティの帰属先すべてにかぶせちゃだめでしょ。

「テロリストの一味」扱いをされないためだけに、『シャルリエブド』の批判ができないイスラム教徒の方こそ、表現の自由を失っているように見える。

この一文を書きたかっただけです、たぶん。

あと、「イスラム教だけでなくキリスト教のディスもしてるからいいんだ」っていう意見を見かけてびっくりしたけど、どっちもダメ、以上、って感じだね。発禁とかになったら表現の自由が侵されたってことになるけど、表現の自由は人を傷つけることが正当化される自由ではないので。

放送禁止用語無しは快感だけど、それ自体に意味はないし“おもしろさの本質”とは関係ない - ビートたけしのニコ生選挙速報を見て

年末にアップしてたんですが、なぜか下書き状態になっていたので、再投稿(0118_15)。

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ビートたけしのニコ生選挙速報キャプチャ

【寄稿】2014年バラエティは指針を失い流れてゆく。ニコ動の開票特番でビートたけしが見せた民放では見せられないおもしろさの本質 - 吉川圭三

読んだ。けっこうバズってるみたいですね。

…えーと。“おもしろさの本質”について一切の説明がないんですが。
基本的に、ニコ動礼賛テレビディスしたい人だな。のひとことで説明できる記事かと。そのくせ、昔のテレビの象徴的存在であるビートたけしを神格化していて、何をやりたいんだか本人もわからなくなっちゃったという印象。

その夜、何十年ぶりのたけし節が現在に蘇った。タイムマシンで全盛期のビートたけしが蘇って来たようだった。「もし、たけしさんが総理大臣になったら?」という質問には「まず核武装。徴兵制。吉原復活。東京湾の真ん中にヒロポン島を作り、脱法ハーブ吸い放題。原発も東京に作ろう。」・・・一時間余り速射砲のように喋るビートたけし。

これが5千文字近く費やした結果、説明したい“おもしろさの本質”なのでしょうか。要するに「昔はよかった」「おれらの時代を作ったビートたけしっておもしろいだろ、今のやつらはわかってない」みたいな懐古厨の振り返りなのかなあと。若い人も相手にしていくべき、トップがコンテンツで勝負していくと明言しているネット企業のえらい人の発言としてはどうなのかなあ。

【衆院選特番】たけし テレビじゃ言えない毒ガス全開!「たけし流の国づくり案」も披露

ぼくもこの放送見て、正直面白かったとは思う。放送禁止用語がなく、テレビなどで聞きなれない言葉が飛び交う。そしてまわりが少しうろたえている。この構図は爽快感があった。

ただ、多くの視聴者を相手になんでも言える、という事自体には何の意味もない。なんでも言える状況を使って、どのような番組を作るか、が番組の“おもしろさの本質”なのだと思う。

例えば、同じ選挙特番でも池上彰の番組作りは“おもしろさの本質”に迫った企画だったといえる。彼は「創価学会」などの、自主規制されることが多い言葉もふんだんに使うが、その言葉を使っている事自体には何の意味もない。放送局の自主規制をものともせず、なぜかタブー視され隠れた権力となっている団体に対して切り込んでいる。このことに意味があるわけで、タブーな言葉を発すること自体は“おもしろさの本質”には一切関係がない。


「池上彰特番」"終了5秒前の奇跡"を見たか? | 日本人が知らないテレビ学 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト
このエントリは池上彰の選挙特番のおもしろさを、とてもうまく説明している良記事。

で、ビートたけしのニコ生選挙特番に話を戻す。

こういう社会派的なギャグは話し手の笑いのセンスと知性がモノを言う。放送禁止用語をただ喋り続ければ良いというものではない。

とブログ筆者は語っているけど、基本的には「放送禁止用語をただ喋り続け」た放送内容だった気がします。「おれらの時代を作ったビートたけしっておもしろいだろ、今のやつらはわかってない」って言われちゃうだけなんだろうな。仮に百歩譲ってこの内容がおもしろいものだとして、番組がおもしろいんじゃなくてたけしがおもしろいだけじゃん。“民放では見せられないおもしろさ”って言う割には、番組の企画自体TVタックルとかとそんなに変わらなかった気がする。

特に理由のない自主規制で放送禁止用語などが多い昨今。実現できる企画の幅はどんどん狭くなっている、という話をするテレビ業界の人は多い。特にお笑いの人とか。ただ、突拍子もないこと、禁止用語を使う、それ自体には何の意味もないんだよな〜。と思いました(小並感)。

「自民にフリーハンドわたしたらヤバい」←「他にマシな野党ねーだろw」←過半数渡さなきゃいいだけっしょ

投票当日で、いまさら感がすさまじいですが。
ここ数日考えていたことを最後に書いておきくて。


想田和弘監督、魂の咆哮「野党よりもマシだと考え、消去法で自民党へ投票する方々へ」 - Togetterまとめ
読んだ。

長々とタイトルで書いたんだけど、三行で言うとこんな感じ。

想田和弘:自民にフリーハンドわたしたらヤバい
ネット民:他にマシな野党ねーだろw
ぼく:いや、自民与党で過半数渡さなきゃいいだけっしょ。なんで二項対立でしか考えられないの?馬鹿なの?

想田和弘の主張

長くて読みたくない人はツイート引用のあとの短文を読んでください。

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投票するべきって言うけどさ、行く気失せる選挙区もあるのは事実じゃん? 小選挙区制の是非について

国会議員秘書やったり、【食べる政治】身近な“食”をきっかけに、政治や社会問題について考えよう! | 食べる政治っていうメディア運営してたり。それなりに政治に興味はあるので、衆院選挙の投票も行きますけど。ぼくの選挙区「投票する意味あるの?」って感じなんですわ。

まあまずはこれを見てください。

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